推しの過剰供給



がしゃりと金属の音が響き渡り、体に大きな衝撃を受けた。
石造りの地面に顔をぶつけなかっただけ幸運だろうか。水晶公はそんな事を思いながら冷たい床に頬を押し付け、脱力していた。近くに居合わせたクリスタリウムの民の視線が痛い。
「……ラハは何をしてるの?」
そんな水晶公にすぐに声をかけてきたのは、この世界に闇を取り戻したかの英雄だった。すぐ側に彼女も居合わせていたらしい。住民達が遠巻きに見つめたまま駆け寄ってこないのはその為なのかもしれない。
「そこの出っ張りに足をひっかけてな……。修繕させなければと思ってた所だ」
「ああ……」
水晶公の足元には、経年劣化で浮き出したレンガが頭を覗かせていた。戦いの場では俊敏な判断と動きを見せている自信はあるが、街の中でつい気を抜くとこれである。子どものように転倒した自分が信じられず、すぐに起き上がる気力もなかった。そんな一部始終を彼女に見られていたのかと思うと、どんな顔をしながら起きればいいのだと余計に立ち上がることもできなくなってしまう。
「とりあえず起きようか」
「ああ、そうだな……。……ん?」
横に膝をついた彼女が手を差し出し、その手を借りて起き上がる。そこまではよかった。
そしてた重ねた手を力強く掴まれたかと思うと、先ほどの転倒の瞬間にも似た浮遊感を覚えた。水晶公がふっと空を仰ぐと、頭上には彼女の顔が見えた。
「……っ!?」
横抱きに抱き上げられているのだ。突然のことに、慌てて彼女の首の後ろに手を回して体を硬直させてしまう。
さほど身長差はないというのに。否、男性という分、水晶公のほうが体格は良いのかもしれない。それでも彼女の腕は力強く、水晶公の体を軽々と持ち上げている。
そんな彼女についしがみ付いてしまった所為で、腕や胸元に柔らかな膨らみを感じ、水晶公の脳内は混乱を極めている。
硬直したまま動かない彼に、これ幸いと彼女は軽い足取りでペンダント居住区のある方向へと歩いていった。
「やはり公の事は闇の戦士様に任せるのが一番安心だな」

ぺたりと伏せられた耳に、そんな住民の関心したような声が聞こえた。
水晶公はそんな彼らの方を向くこともできず、落ちたままの杖の回収だけはしておいてほしいと心の中で念じていた。



連れて行かれたのは、水晶公が彼女に提供した居住区の部屋だった。綺麗に整えられた寝台にそっと体を下ろされ、ようやく解放された事にほっと息をつく。
「こっちのほうが近いから連れて来ちゃったけど……。怪我は?」
「ローブがクッションになってくれたお陰か、衝撃のわりに痛む場所はない」
「本当に?」
ぎしりとベッドの軋む音が聞こえ、足元が僅かに沈み込む。水晶公が顔を上げると、彼女がベッドに膝を付いていた。
「見せて」
「え……っ」
おもむろにローブを捲られ、中の素足が露になる。下着が見えぬよう咄嗟に太股付近の布地を押さえたが、彼女は気にする様子もなく水晶公の脛を持ち上げ、傷がないかを目視で確認していた。そしてそっと足を指先で撫でられ、ローブの中の尻尾の付け根からぞわりとした感覚が伝わってくる。
「うん、足は大丈夫だね。あとは……」
「……っ」
顔を上げた彼女が今度は水晶公の腰の横に手を付き、身を乗り出してきた。突然近くなった顔の距離に思わずベッドの上で後ずさってしまう。
「ほら、ちゃんと顔見せて」
「い、いや、待ってくれ」
ベッドの上で逃げられる距離などたかが知れており、伸ばされた手に紅潮した頬はあっさりと捕まってしまう。左頬の結晶化している部分を指でなぞられ、覗き込むように確認されると、彼女の睫毛の長さが確認できてしまうほどに顔が近くなる。息を吸うためか僅かに唇が開くのが見えると、水晶公は己の限界を感じ、手で顔を覆い隠してしまった。
「ち、近い……っ」
「え?」
顔を覆うことで体を支えられなくなり、ずるりと頭がベッドに沈んでいく。後頭部には枕が当たり衝撃は無かったが、思えばこれは彼女が利用しているベッドだ。僅かに彼女の匂いを感じる気がして、水晶公はとうとう蹲ってしまった。
「大丈夫? やっぱりどこか……」
「違う、違うんだ……。その、あなたがあまりに近すぎて……」
「…………」
両手で隠している顔を覗き込む視線を感じるが、とてもそれに反応を返すような心境ではない。ぺったりと耳を伏せ、尻尾を丸め込んでいると、頭上から小さくため息が聞こえた。
「……ここに来てから少し距離をとられてるなとは思ってたけど」
続いて聞こえてきた声がやけに悲しげで、伏せられた耳がぴくりと動く。
「クリスタルタワーの調査を一緒にしていた時のほうが、もっと気安くしてくれてたよね……」
「ち、違うんだっ」
彼女にあらぬ誤解を与えている様で、水晶公は顔から手を離し、慌てて彼女のほうへと顔を向けた。先程と変わらずの至近距離で顔を合わせることとなり怯みそうになるが、今はそれどころではないと自分を奮い立たせた。
「あなたの事を拒否しているのではなくて、むしろ逆に……」
頬が熱い。紅潮しきっている顔はもはや隠しようがないだろう。
この百年間、かの英雄のことを思い、想い続け、その感情を──すっかり拗らせてしまっていた。召喚に成功した時など、夢にまでみた彼女の姿に冷静さを装うのに必死で、内心では腰を抜かしそうになっていたほどだ。
そんな気持ちをどう説明したら良いものか。政治的な駆け引きではよく回る舌が、この時ばかりは機能しない。上手く言葉にできず口ごもっていると、先程まで悲しげな顔をしていた彼女が口を押さえ、堪えきれずに笑い出した。
「知ってる」
「えっ?」
「あんなに好意を向けてくれてたのに気付かないほど鈍くはないよ。ただ、今になっても慣れてくれないから少しくらいやり返したくなっちゃって……」
赤い頬に再び細い指が添えられる。
そして視界が彼女の顔で埋まり、唇に柔らかなものが触れた。それは一瞬のことですぐに離れていってしまったが、何をされたかなど一目瞭然であった。
「早く慣れて貰わないとこういうことも……、って、ラハ?」
「…………」
ずるりと、再び後頭部が枕に沈み込んでいく。唇を離した彼女が何か言葉を続けているのは分かったが、それは意味をなす言葉として耳には入ってこなかった。
「……うそでしょ」
意識を確かめるように頬を軽く叩かれる。それに応える術もなく、水晶公は目を回していた。




それから数日後、ミーン工芸館に出入りする闇の戦士がよく見られるようになる。
調合の為の道具を貸して欲しいと頼まれたべリスクは、恩人の申し出を快く受け入れた。
「何を作っているんですか?」
「…………精力剤」
「それはそれは。アマロに使えるものが出来れば、彼らの数ももっと増やせるかもしれませんね」
精力剤と聞いても人に使うという想像に至らないところが彼の長所でもあるのかと、闇の戦士はこの時ばかりはそう思ってしまう。
原初世界での師匠を訊ねれば効果的なものを作れるのかもしれないが、水晶公に対して変に興味を持たれてしまう可能性があるのも困りもので。
朝日が降り注ぐクリスタリウムの元、英雄はひとり、乳鉢で薬草をすりつぶしていた。