60:キス(2)

静かな室内に、外の木の枝に留まった小鳥のさえずりが小さく響き渡る。
それと同時に聞こえてくるのは、カリカリというペンの音。それと紙をめくる音。

奈落王となったプラチナが驚いたのは、その書類処理の量だ。大半は部下達が処理するのだが、法律に関するものや予算を大きく使う工事計画などの重要書類は王が目を通さなければならない。
王が代替わりし、まだ堕ちてくる天使に手を焼いてはいるものの、その数は減ってきている。
国が大きく動く中で必要になってくる法律の改正、天使──特にセレス──によって壊滅的な被害を受けた街や村の復興予算など決めなければならない案件は掃いて捨てるほど有り、王は多忙を極めていた。



「少し、休憩しましょうか」
「…そうだな」
同じく書類処理をしていたジェイドがプラチナにそう声をかけた。
ずっと机に座りっぱなしでは身体が固まってしまう。ジェイドは茶の準備をする為に立ち上がり、プラチナはその場で身体を伸ばした。仕事は未だ山のようにあるが、適度に休憩を入れないと却って仕事は滞る。そして夜はきちんと寝る。ジェイドに管理される生活は今も昔も変わらない。


いや、変わった事もある。
兄のアレクと戦っていた頃。ジェイドは一見プラチナと運命を共有しているように見えていたが、プラチナはそうは感じていなかった。ジェイドもそう。プラチナを利用しているだけだったので『共有』とは程遠い関係だった。
今は大量の書類や仕事に二人で溜め息をつき、協力して処理したり愚痴を言い合ったりしている。(愚痴を言っているのは主にジェイドのほうだが)
これは『共有』とは言えるのではないだろうか。

そして二人の関係。
ジェイドはプラチナの参謀であり側近という立場は変わってはいない。
しかし、あの日。


『────傍に』


そのたった一言により二人の間の空気は一変した。
のちに『一世一代のプロポーズでしたよ』と語ったジェイドの言葉通り、ジェイドとプラチナには主従関係を越えた温かな関係が築かれている。


(まぁ、まだ何もしていないんだけどな)
カップを温めていたジェイドがそう心の中でぼやいた。
プラチナへの想いを曝け出してから、ジェイドはプラチナに過剰に求めることを止めた。プラチナを利用し、厳しく接し、そのくせ突き放す。そんなやり方に思う所が無いわけではなかったのだ。
今はプラチナが受け入れてくれている事で満足し、ゆっくり関係を築いていこうと。



でも、そろそろキスのひとつくらいは。

ジェイドはそう思う自分に罪はないと思った。
あの日から何ヶ月も経っている。『恋人』ならとうにキスのひとつもしているはずだろう。


ジェイドはトレイにティーカプを乗せると、プラチナの元へと戻って行った。
「どうぞ」
「ああ、悪いな」
カップを受け取る、白い指。

ジェイドは中の茶を零さぬよう、その手に己の物を重ねた。
「…プラチナ様」
「うん……?」
何事かと見上げてくるプラチナは無垢な目で。
そんな視線から逃れるように目を閉じたジェイドは、プラチナの口元に指を当て、ゆっくりと身を倒して行った。


間もなくして唇に感じる、柔らかな感触。


子供のようなキスだ。
しかし想い人とのキスはただ触れるだけでこんなにも満たされるものなのかと、ジェイドは感慨を受けながらすぐに身体を離す。
そして再度プラチナと視線が合った。先程と同じ、無垢な目をしている。
「…プラチナ様」
「………??」


その青い瞳に浮かび上がる疑問符。
「プラチナさま…?」
「…いまのは、なんだ?」


プラチナの言葉にジェイドはその場に固まった。
プラチナの声は決して不快感を示しているものではない。純粋に疑問を口にしていた。
「キス、ですが」
「きす、とはなんだ?」



プラチナはとても頭が良い。
飲み込みも早く、教えれば教えるだけ身につけていく、典型的な優等生タイプだった。


しかしその美点は、『教えないと覚えない』という欠点にも繋がっている。


兄のアレクは勉強はできないが好奇心旺盛で、主にルビィやロードからあれこれ俗な知識を取り入れているようだった。しかしプラチナにはその応用力というか順応力がない。


ジェイドはこれまで、プラチナに様々な事を教えて来た。
兄に勝利する為の戦いを。王になる為の勉学を。王に相応しい身のこなし方を。


しかし唯一教えていない事があった。
それは『色恋沙汰』。


プラチナはキスというものを知らず、それが恋人同士で行われる嬉し恥ずかしスキンシップだという事を知らない。教えていないのだから。


ジェイドは頭を抱えた。自分の教育方針がこんな所で仇になるとは。


「わかりました。…じっくり、教えて差し上げますから」



こればかりは教えてどうにかなるものとは思えないのだが。
プラチナを自分好みに育てる要素がまた増えた。ジェイドはそう思うことにした。