80:スタートライン

奈落城の地下にある薄暗い部屋。その真ん中には巨大な試験管がひとつ置かれている。
その試験管の前に立っていた水色の髪の少年は、階段を降りてくる足音に気付き、入口を振り返った。
現れたのは、赤い目をした幼い奈落王。
幼いのは、見た目だけであったが。

「あとどれくらいでできそう?」
「う〜ん、あと数百年って所かな」
「えー、そんなに!?」
そんなに待ってられないよ、と、アレクが試験管のガラスにしがみつく。試験管の中には、管を満たす液体と、とても小さな細胞の塊が1つ浮いていた。


かつて、自分もこの試験管の中から産まれ出た。
新たな奈落の王となるために。


「たったの数百年だよ。…あまり淋しいことを言わないでくれるかな」
「…うん、ごめんね、ベリル。無理なお願いしちゃって」

この試験管の塊が新たな王となる時、それは現奈落王の死を意味する。

更に数百年も前、アレクはベリルに自分の心臓を砕くよう命じた。
新たな奈落王を作り、自分を葬るようにと。
「奈落は綺麗になった。これで胸を張ってプラチナとサフィに会いに逝けるよ。これからは俺の子供たちが、未来を作る番なんだ」
俺の役割はもう終わり、と、アレクは少し淋しそうな顔をしてベリルに笑いかけた。
「君の望み通り、この子はいつか誰かを愛し、子を授かって、その子がまた次の奈落王になる。この地下室の役割はもうお仕舞いだ」
「…うん、弟も作ってあげてほしいな。プラチナみたいな。って言っても、もう顔も覚えてないけど…」
気の遠くなるような昔に、自分と王位を争った双子の弟。
自分が王となった時に、補佐として最期まで自分を支えてくれた。王の石を飲まなかったプラチナはとても早く死んでしまったが、兄弟で過ごした時間はとても暖かいものだった。
あまりにも遠い昔の記憶。もう顔も声も覚えていないけど、幸せだった想いは今も胸に息づいている。
「双子が生まれても、戦争なんかさせるなよ」
「うん」
「おやつの時間はちゃんとあるといいな。書類ばっかりは疲れるんだ」
「そうだね」
「………ベリル」
笑顔で答えるベリルに、アレクの声が曇る。
自分の心臓を砕くように言った時も、一瞬驚いた顔をしたが、すぐに笑顔で了承した。
そして笑顔のまま王を育成し続けている。王が産まれ、アレクが死ねば、もうベリルを覚えている者はいなくなってしまうというのに。
何かを言いかけたアレクに、ベリルはわかっていると、指を口に当てた。
「僕は君が生まれる遥か昔から生きているんだよ。死んでいく仲間を見るのは慣れているしね。…ああ、いや、やっぱりこればっかりは慣れないなぁ」
でもね、とベリルは続ける。
「君の子孫が生まれて、育って、奈落を変えていく。それを見届けることができるのは、この上なく幸せなことだと思うんだ。」
「……っ」
アレクの赤い瞳に、大きな涙が浮かぶ。数えきれないほどの年を重ねていても、泣き虫は治ってはいなかった。
ベリルの手が、自分と背丈の変わらない王の頭を撫でる。
「それに僕の肉体の寿命はもうそんなに長くない。スペアは作らずに、そのまま朽ちていくとするよ。…すぐに会いに逝けるから、長い土産話につき合ってくれるかい?」
「…うん、サフィにお茶入れてもらって、聞かせてよ。俺の子供達の話」
ごしごしと涙で濡れる目を擦る。そして笑った。奈落の民を勇気づけた、王の笑顔だ。

ベリルがこれからを思い笑うなら、自分も笑っていよう。
奈落が変わっていくのは、これからなのだから。