おかえりなさい


くちっ、と小さなくしゃみをして、ジタンはふるりと身震いした。



今朝からレオンは仲間と共にキャンプ地を離れていた。
本来であれば自分もそれに同行し共に戦っているはずだったが、こんな小さな姿では足手纏いになってしまうだけで。

何の役にも立てないのなら、せめて一番に「おかえりなさい」を言おうと、ジタンはレオンが帰ってくるであろう方向へと足を運んでいた。
しかし普段は一人でここまで来た事がない。大人の足ではたいした事の無い距離だが、この身体では時間がかかってしまう為だ。
だから油断してしまったのか、ジタンは先日降った雨によってできた大きな水たまりに落ちてしまったのだ。
顔から思い切り突っ込んでしまい、頭から尻尾の先まで泥水でしどしどに濡れてしまった。こんな姿では“お迎え”などできるはずがない。


ジタンは耳を伏せふらふらと立ち上がり、テントへ戻ろうと元来た道を歩いていった。水を吸ったマントが重く脱ごうと思ったが、手がかじかんで上手く紐がほどけない。


ここからテントまで、こんなに遠かった?
この身体は、こんなに冷えやすかった?


顔から滴る水が手に当たり、体温で温められたそれがぬるく感じる。
水たまり一つで駄目になる小さな身体に情けなさや憤りを感じ、ジタンは泥で汚れた腕で顔を拭う。
力なく垂れ、地面に引きずっている尻尾は色が変わるほど泥まみれになっていた。




林の中で乾いた枯れ枝を集めていたバッツは、動物の鳴き声の様なものがする事に気がついた。
にぃにぃと、つがいを求めて悲しそうに泣く鳴き声。
「…ジタン?」
最近はもうキャンプ地にすっかり定着してしまった鳴き声に、バッツはその小さな身体を探して歩いた。
小さな声を頼りに辺りを見回すと、テントが立てられている場所から少し離れた所の草むらで踞っているジタンを見つけた。
その小さな身体は、泥だらけになっていて見目にも痛々しい。しかもこの寒空の中、全身を濡らしてしまっている。小さな仔猫などすぐに死んでしまうのではないかと焦り、保護しようと駆け寄った。

「ジタン!」
自分を呼ぶ声に、ジタンは音のする方へと耳を傾ける。
バッツの声だ。
助かったと胸を撫で下ろし、寒さで鈍くなった身体を叱咤してなんとか振り返る。
しかし。

「……にっ!?」
自分に向かって伸ばされる、大きな手。
えも言われぬ恐怖に、ジタンは全身の毛を逆立てた。耳を伏せ、濡れて細くなった尻尾を小刻みに震わせている。

その反応に、怖がらせてしまったかとバッツは手を引っ込めた。そしてマントを外し、ジタンへと被せてやる。
「すぐに戻るから、絶っ対にそこから動くなよ!」
そう言ってその場を走り去ってしまった。

被せられたマントは風を防ぎ暖かかったが、慣れぬ匂いに緊張が解けることはなかった。



レオンが野営地付近まで戻ってきたのは、丁度この頃だった。
慌てた様子のバッツに引っ張られ、訳も分からぬままキャンプ地へと戻って行く。
「ジタンが…」の一言に、さっと顔色が変わった。マントを目印にしてあると言うバッツに礼を言うと、レオンは愛する伴侶の元へと駆けて行った。
所々にできている水たまりを踏み散しながら、大股に足を進める。たった数分の距離が、ひどく長いものに感じた。



やがて見えてきた水色のマントに居場所を突き止めると、直ぐさまその布地を取り上げる。中にはみすぼらしい姿で震えるジタンが座り込んでいた。
「なにを……しているんだ、お前は!」
怒声に小さな身体が竦み上がる。レオンはぼろぼろと涙を溢れさせるジタンを手のひらで包んで持ち上げると、服が汚れるのも構わずシャツの中へ放り込む。
「に……」
「…黙っていろ」
レオンは氷の様な冷たさを肌で感じつつ、小さな身体に負担がかからない様に布越しに手を添え、その場を後にした。

テントへ戻り、荷物からタオルを取り出すと、そこへジタンを下ろし服を脱がせた。そして自分もシャツを脱ぐと、裸になったジタンの上にそれを被せる。
「待っていろ」と一言残し、レオンは一旦テントから離れて行った。


ぱさりとテントの幕が擦れる音の後に訪れる静寂。
ジタンはかけられたシャツの中から顔を出すと、大きなテントの天井を見上げた。

正確にはテントが大きいのではなく、自分が小さすぎるだけだ。
訳の分からない魔法をかけられ、共に戦うどころか自分の世話もままならない。
舌がまわらず「おかえり」も言えず、にぃにぃ鳴くばかり。

そしてつまらないヘマをして、大好きな人を怒らせて。

せっかく助けにきてくれたバッツにも酷い態度をとってしまった。寒いのにマントを貸してくれ、その足でレオンを呼びに行ってくれたのだろう。

涙が溢れて、顔についた泥が落ち、レオンのシャツに泥染みができてしまう。
それを見て、更に溢れる涙を止めることができなかった。



それから十分程が経ち、レオンがテントへと戻ってきた。手は小さな桶を持っている。
「待たせたな」
静かに声をかけ、見上げてきたジタンの頬を伝うものに眉を寄せる。
そして黙ってジタンの前に腰をおろすと、桶を床に置いた。
「にゃ……」
「湯だ」
レオンはジタンの身体を持ち上げ、指で涙を拭い、ゆっくりとその身体をお湯に浸していった。
冷えた身体が急速に温まって行く。ジタンは漸く力を抜き、ふにゃ…と声をあげる。
レオンは指先でジタンの身体についている泥を落としていった。特に、汚れの酷い尻尾は念入りに。

「さっきは怒鳴ってすまなかったな…」
つぶやかれた言葉に、ジタンはふるふると首を横に振る。
「にゃぁ……にゃ…」
謝りたいのに上手く伝える事が出来ない。
一度は退いた涙がまた目に浮かぶをの見て、レオンはお湯で温まった指でジタンの顔についた泥を落とした。
「泣くな…。お前に泣かれるのが一番つらい」
「に、にぃ…」
「俺を、迎えにきてくれてたんだろう?」
「にゃ…っ」
分かってくれていた事にたまらなくなり、ジタンは自分を洗ってくれていた指に勢い良く抱きついた。その衝撃で飛んだお湯がレオンの顔にかかり、思わず苦笑をもらす。

泥を落とし終え丁寧に髪を拭かれる頃には、ジタンの顔色はすっかり健康的なものに戻っていた。



乾いてふわふわになった尻尾と耳を鼻先で撫でられ、ジタンがくすぐったそうな声をあげる。
「明日はあいつのマントと、お前と俺の服を洗わないとな。…忙しいぞ」
「にっ」
手伝えという意味の含まれる言葉に、ジタンは元気に返事を返した。
バッツは別に良いと言っていたらしいが、そうもいかない。きちんと綺麗にして、そして感謝と謝罪をしたかった。

一緒の毛布に包まり、手の中で喉を鳴らすジタンをレオンが突っつく。見上げると不満そうな顔をしたレオンと目が合った。
「何か、忘れていないか?」
「……に!」
はっとし、耳を立てたジタンが、寝そべっているレオンの顔の所へと歩いていく。そして小さな両手でレオンの頬に触れ。
「に、にゃにゃぃ」
ちゅっと、お帰りなさいのキスをした。