怪盗Z 3


まだ慣れない詰め襟が崩れていないか確認をし、スコールはレオンの待つ玄関へと急いだ。
レオンの服装は自由だが、まだ見習いのスコールは軍から支給された制服を着ている。胸元を飾る鎖の音を立てながらレオンの隣に並び、見送ってくれる二人のジタンと向き合った。
「いってらっしゃい」
「ああ、いってくる」
両親は慣れたもので、何の躊躇もなく唇を合わせて『いってらっしゃいのキス』をしている。スコールはそんな二人から慌てて目を逸らすと、目の前にいる小さいほうのジタンと目が合った。
「今日のお弁当の卵焼き、俺が作ったんだよ」
「そ…うなんだ」
そう恥ずかしそうに言われ、スコールもつられて照れてしまう。
スコールが弁当箱を受け取るとジタンはその頬に触れる程度のキスをして、小さな声で「いってらっしゃい」と囁いた。
「い、いってきます」
手に持つ弁当の温かみと頬に触れた体温に飛び上がりそうになりながらも、かろうじて返事を返すと、ジタンがにこりと笑った。その笑顔にスコールの心臓が壊れそうになる。


かわいい。護りたい。お嫁さんにしたい。
この前のは何かの間違いだったんだ…。


先日、広場でピンク色の怪盗Zと対峙し初めてを奪われた時。
それだけでもショックだったのだが、腕に収まる小さな身体とふわふわの毛に…少しだけときめいてしまったのだ。自分には心に決めた相手がいるというのに。


スコールは弁当の入った鞄をしっかりと持ち、思考を打ち消すようにしっかりとした足取りで歩き出した。
右手と右足が同時に出てるぞと、レオンに突っ込まれながら。







パタンとドアが閉まり、二人のジタンは振っていた手を下ろした。
「“この前”みたいにキスしねーの?」
「…俺は慎重なの!」
ニヤニヤとしながらそんな事を言ってくる養い親に、ジタンが桜色の頬をぷくっと膨らませる。“この前”とは、怪盗Zとしてスコールの唇を奪った時の事を言っているのだろう。
「ジタン達と違って、俺とスコールは最初から『家族』で始まったんだ。もしフラれて気まずくなったら家にいるの辛くなっちゃうだろ…」
そんなふうに気落ちするジタンは、スコールの事に関してはひどく弱気だ。

どう見ても両想いだし、『レオンみたいにお金いっぱい稼いでジタンと住む家を買うんだ』と打ち明けられた事がある養い親のジタンとしては、この幼い息子達の進展具合がもどかしくて仕方がない。
本人達の問題なので口出しはできないのだが。

「そんな奥手なはずの怪盗さんは、なんでキスできたんだろうな〜」
「『盗んだ』んだよ。外で働き始めたら、誰がスコールのこと好きになって取っちゃうかわかんないし…」
「スコールがピンクの怪盗さんを好きになっちゃったら?」
「正体は俺でしたーって言う」

そう言うとジタンはさっさと台所へ引き上げていってしまった。
そんな計算高いんだか臆病なのかわからない息子を追いかけ、養い親のジタンも朝食の後片付けを開始する。


今日は予告状を出している日。


まだ幼い子を連れているので、深夜の盗みはできない。最近は昼に出ることが多くなった。
早く片付けて準備をしよう、そう思っていた時だった。



家にある電話が鳴り、大きなジタンがそれに出る。
電話の相手と何度か言葉を交わすと、その声はどんどん緊迫感のあるものへと変わっていく。ただならぬ様子に、気になったジタンが台所から顔を覗かせていた。
「───わかった、すぐに行く」
電話を切ると、大きなジタンは直ぐに自室から上着と台本を持ち出して来た。靴を履きながら、追いかけて来たジタンに事情を説明する。
「今日やる舞台のライバル役が、腹壊したって」
「ジタンとダブルキャストの…?代わりに出るの?」
「ああ、だから今日の『仕事』はナシだ」
それだけ手短かに言うと、養い親は「戸締まり頼むな」と言って出て行ってしまった。







大きな厨房で、コックが主人の為に自慢の腕を振るっている。
質のいい鍋の中では、色とりどりの野菜が炒められている真っ最中。中に小麦粉を投入した所で、コックは自分に近づいてくる黒い影に気がついた。
「おじさん、良い匂いだね」
「そうかい、今日はシチューなんだよ」
自分の腰くらいまでの背丈しかない桃色の髪をした愛らしい子供に、コックが頬を緩ませる。
黒いマントと仮面は、巷で有名な怪盗Zに扮しているのだろう。闇夜に輝く銀色の怪盗に憧れ、怪盗ごっこをする子供は多い。
「…しかし、今日は小さなお客さんはいたかな…?」
主人にそんな話はされていなかったはずだ。しかし、そう気付いた時にはもう遅く。
眠り薬を嗅がされたコックは、すでにその場に倒れていた。



「今日の獲物は……牛乳だ」
鍋の火を止め、ジタンは厨房の冷蔵庫を漁る。難なく発見した牛乳は搾りたて新鮮で、きっと町中の猫達は喜んでくれるだろう。
自分もちょっと飲んじゃだめかなと喉を鳴らした時────ジタンは尻尾に鋭い痛みを感じた。
「ぎゃっ…!」
「おや、今日は小猿ちゃんが一人でお使いかい?」
頭上から振ってくる声と尻尾の痛みに、何者かに尻尾を掴まれているのだと分かる。ジタンは痛みに堪えながらその人物を見上げると、見るに耐えないパンツ姿の男が不機嫌を露に立っていた。
この屋敷にはパンツの妖怪が出ると、子供の世界では有名な話だ。
「シチューが食べたいのに材料の牛乳を盗もうなんて……つくづくやり方がやらしいねぇ」
血色の悪そうな唇が釣り上がり、この屋敷の主人とおぼしきパンツが手を伸ばしてくる。

──────油断した。自分一人でできると驕ってしまっていた。

この手に捕まった時、次に見えるのはきっと牢獄の檻だ。

ジタンがそう諦めそうになっていると、自分と男の間に割り込んでくる人物が現れた。
手を阻まれた男が尻尾を手放す。漸く痛みから解放されたジタンが己を助けてくれた人物を見ると、それはよく知った相手で。

「…スコール」

もう会えなくなるかと思っていた想い人の出現に、ジタンはその場で腰を抜かしてしまった。



「今度は軍の所の仔猫じゃないか。邪魔をするなんてどういうつもりだい?」
「…こいつは、俺の獲物だ」
「なんだって?」
スコールは床にへたり込んでいる幼い怪盗に一度視線を向けると、対峙する男を睨み返す。
「そいつを捕まえるのが君の仕事だろう?何故邪魔を…」
「…銀色の怪盗を捕まえろとは言われてるけど、ピンク色の怪盗を捕まえろとは依頼書に書いて無い」
「───キィィ!君は本当に父親にそっっくりだね!レオンはどこにいるんだ!」

スコールの言い様に憤慨した男が、腰の布をはためかせながら厨房を飛び出していく。
きっとレオンを呼んで戻ってくるのだろう。そうなる前にと、スコールはジタンの前にしゃがみ込み、持っている牛乳をそっと取り上げた。
「これは返してもらう。お前は早く逃げろ」
「…俺を、捕まえないの?」
仮面越しの赤い瞳で見つめられたスコールが、頬を赤らめてぐっと詰まる。
「今お前を捕まえても、厳密には俺が捕まえたことにはならないし……今回は見逃してやる」
もう俺以外に捕まるヘマはするなとぼそぼそ言うスコールに、ジタンは心臓を掴まれたような苦しさを覚えた。
「…スコール!」
「うわっ」
溜まらなくなったジタンが立場を忘れてスコールにのしかかる。その衝撃で腕から転がり落ちた牛乳に気を取られていると、スコールはジタンに両頬を手で覆われた。
視界いっぱいになるピンク色に、先日の悲劇が蘇る。
その時感じたのと同じ柔らかな物が唇に触れ、反射的にその身体を受け止めた腕には尻尾を絡められ、スコールが混乱する。何度か唇を啄まれた後、口内に熱いものが侵入してきた。
「ん、ん…っ!」
それがジタンの舌だとわかるまではスコールの思考は働かない。舌先をくすぐられ、ぞくりと身体を震わせる。
「は…」
ジタンは口を離し、唾液で濡れたスコールの唇を舐めると、その首に腕を回して身体を密着させた。
「スコール、スコール…」
名前を連呼しながら仔猫のように身体を擦り付けるジタンの背に、大好きな手がおずおずと回されてくる。

「俺……スコールのことが好きだよ」

顔を紅潮させたジタンがそう告白をすると、もう一度想い人の唇に顔を寄せた。







「…ただいま」
夜になって戻って来たスコールは、まるで葬式帰りの様だった。隣ではレオンがなんとも言えない顔をしている。
「おかえり…またビー玉?」
ビニール袋に入ったビー玉を渡されたジタンが、その量に驚く。見るとスコールは飲み過ぎで気分が悪いのか、顔色が冴えなかった。
「スコール大丈夫?」
心配そうに覗き込んでくるジタンに、スコールが泣きそうになる。

自分にはこんなに可愛いお嫁さん(予定)がいるのに、またあの怪盗と…。レオンが駆けつける前には立ち去っていたが、それまでの濃厚な時間に自分も夢中になってしまっていた、気がする。よく覚えていないが。

そんな事は言えなくて、スコールは謝罪の意味も込めてジタンを抱きしめた。頬をくすぐる金色の髪に、やはり自分はこの色が良いと再確認する。


スコールがそんな葛藤を抱えているとは露知らず。
今日はたくさんスコールと触れ合えたと、ジタンはその背中に手を回した。